些細な勇気
先日、目の見えない方が、杖を持って歩いていた。
のだが、電柱に向かって必死に杖を伸ばしており、どちらへ進めばいいかわからない様子だった。
声をかけた方がいい、と強く思った。
あの方は確実に困っている。目的地を聞いて、それならこっちですよと体の向きを変えてあげるべきだと。
しかしここで葛藤してしまった。
勇気が出なかったのである。
おかしなことだ。
人に声をかけるのに、しかも善意で声をかけるのに、なぜ勇気を振り絞らなければならないのだろう。
心の構造は不可解だ。日本人特有のものなのかあるいは。
あの人もきっと、少し電柱に引っかかっているだけだ。
きっとそんなこと、あの人にとっては日常茶飯事なことで、すぐに体制を立て直して歩き出すに違いない、きっとそうだ。
心の中でそんな言い訳をしながら。
そんなこんなで、葛藤している間に私の足は一定の速度でその方の横を通り過ぎてしまった。
「どちらへ行かれるんですか」
後ろから声が聞こえた。
振り返ってみると、私の後ろを歩いていた女性が、その方に声をかけていた。
「駅へ行きたいんです」
「駅ならこっちですよ」
前へ向き直ってすたすたと歩きながらこんな会話を聞いた。
私ができなかったことを、あの女性はやった。
次に同じような機会があったら、必ず私はあの女性のように声をかけよう。
勇気。些細な勇気だ。